谷松屋 戸田
TANIMATSUYA TODA
HISTORY

谷松屋戸田家は大阪・伏見町の唐物屋で茶道具を商ってきた。元祖宗慶は、1690(元禄3)年に没したとされている。

右記下記が初代から当代に至る店主の系譜である。

※本系譜は、木津宗詮著『目利き - 谷松屋八代戸田露吟覚書 -』(河原書店、2021年)を参考としている。

初代 浄休
[ 初代権兵衛 ]

享保11年(1726)没

大阪・伏見町で唐物屋を営む。
当時の伏見町は、長崎から舶来した唐物を扱う商人が集住しており、加賀屋、広島屋、谷松屋という唐物仲間で構成された。以後、代々権兵衛を名乗り、谷松屋権兵衛、略して「谷権」と呼ばれた。

二代 休宰
[ 二代権兵衛 ]

元禄8年 ~ 享保20年 (1695~1735)

縁戚関係であったか定かではないが、相当の目利きと思われ、浄休に請われて谷松屋に入ったと考えられる。

三代 休雄
[ 三代権兵衛 ]

享保13年 ~ 寛政元年(1728~1789)

安永6年に刊行された大坂の地誌である『難波丸綱目』に伏見町の茶器諸道具目利きとして登場している。この頃には、谷松屋は加賀屋、広島屋とともに有力な伏見町唐物屋としての評価が確立した。また弟文右衛門を、三井・矢倉両家と薩摩屋を得意につけて、二条間之町に分家させた(京都谷松屋)。

四代 休芳
[ 四代権兵衛 ]

文化10年(1813)没

一流の目利きとして認められ雲州松平家の御用道具商となる。松平不昧公の信任が厚く多くの名品を納めた。不昧公所蔵の道具リスト『雲州蔵帳』には休芳から購入した道具が24点収録されている。文化5(1808)年、不昧公は隠居後初めて玉造温泉入湯のために帰国し、その途次に伏見町の谷松屋に来訪した。その際、休芳は一代の誉れとして「弌玄庵(いちげんあん)」の号を授かり、さらに不昧が身に付けていた羽織を手ずから拝領した。他に「響」の墨跡、不昧公自作になる茶杓(銘「柳緑花紅」)も併せて授けられている。茶の湯では武者小路千家の初代木津松斎宗詮に師事した。

五代 休翁
[ 五代権兵衛 ]

寛政8年 ~ 天保4年(1796~1833)

父休芳が亡くなった文化10年、18歳で谷松屋当主となるが、38歳の若さで没した。休翁一代は唐物商として不振をきたし、谷松屋の衰退期であった。のちに目利きとして活躍する初代弥七(了然)を養子に迎えている。

六代 了念
[ 初代弥七 ]

弘化4年(1847)没

安芸国熊野村で生まれ、目利きとして戸田家に迎えられる。一時期振るわなかった谷松屋の暖簾を挽回した。初代浄休以来、五代にわたって襲名してきた「権兵衛」は名乗らず、「弥七」と生涯名乗った。

七代 了解
[ 二代弥七 ] / [ 六代権兵衛 ]

明治7年(1874)没

明治維新後の社会・経済の大変革により、茶道具商の世界ではかつてない不況の時代が到来する。了解は茶道具商を廃業して他業に携わり、弟の露吟に谷松屋の復興を託す。のちに茶道具商を再開し、「六代権兵衛」を名乗る。了解の没後、初代政之助を迎えて戸田政家となり、その後戸田政商店として現在に至っている。

八代 露吟
[ 三代弥七 ]

天保14年 ~ 明治38年(1843~1905)

文明開花の急進展による西洋文化の流入、廃仏毀釈運動による文化財の破壊、幕藩体制崩壊による財政難など、明治初期は混乱を極めた。旧大名家や有力商人たちは道具を手放し、道具類の価値は暴落し、茶道を支持する者も減少した。露吟は道具界が不振の極点というべき時代に当主として耐え忍び、結果的に唯一生き残った伏見町の唐物屋となる。

24歳で兄から家督を相続した露吟は、青井戸茶碗「六地蔵」を買い求め(現:泉屋博古館所蔵)、また新たに加賀に販路を広げるなど商才を奮った。

晩年は、数寄者が出現し業界も活況を呈するようになり、平瀬露香、藤田傳三郎、赤星弥之助など有力数寄者のもとに出入りし多くの名品を納めた。「露吟」の号は露香から与えられている。露吟は生前から道具の目利きと評され、幕末、明治初年の衰退した谷松屋を挽回した「谷松屋中興の祖」とされている。

道具の目利きについて記した『後學集』や、子孫のために書き残した『戸田露吟覚書』などの著書を残している。また定家様の書をよくし、多くの箱書きがある。茶の湯では、木津家二代得浅斎宗詮に師事している。

九代 露朝
[ 四代弥七 ]

慶応3年 ~ 昭和4年(1867~1929)

京都の谷松屋戸田貞八(露竹、露吟の兄)の三男として生まれ、当時活躍中の露吟の養嗣子となる。茶道具界の衰退期に当たり、谷松屋の強化を図るため、大阪谷松屋と京都谷松屋を統合し、伝来の道具や顧客を一点集中させた。松平不昧から拝領した「袖ひして云々」の茶杓も大阪谷松屋に伝来した。露朝も周りの期待に応え目利きとなり、明治38年の露吟の死により家督を相続し、四代弥七を襲名した。大正期の好景気の時代に活躍し、大阪美術倶楽部二代社長を務めて業界の発展に寄与した。

十代  露綏(ろすい)
[ 五代弥七 ]

明治25年 ~ 昭和17年(1892~1942)

九代露朝の長男として生まれ、幼名は音一。父のもとで家業に専念し、露朝の隠居により谷松屋十代当主となり五代弥七と改名した。上海事変から始まり太平洋戦争に至る「十五年戦争」により除々に戦時色が色濃くなり、美術品は贅沢品とみなされ、明治初年以来の厳しい時代に当主となった。露綏は新たな試みとして道具の陳列のためにビルを建て、道具販売の手段として目録『無尽蔵』を作り、1933(昭和8)年4月に東京銀座に店舗を設け、1938(昭和13)年には東京美術倶楽部前に茶邸を構え、東京での商活動など種々尽力した。また後進の指導にも力を注ぎ、大阪美術倶楽部の青年部を設立して後進のために尽力した。同倶楽部の取締役に就任し、斯界の向上発展に務めている。

十一代 弥太郎
[ 六代弥七 ]

大正12年 ~ 昭和20年(1923~1945)

1942(昭和17)年、父の急死により家督を相続し谷松屋11代当主となるが、学徒動員で出征し、22歳の若さで惜しくも戦死する。

十二代 鍾之助(露慶)

大正14年 ~ 平成24年(1925~2012)

名古屋の道具商宇治屋に生まれる。先代の六代弥七が戦死したことにより、戸田家に迎えられる。谷松屋戸田商店の十二代当主となり、廃業寸前であった店の再興を果たした。戦後は多くの名器が市場に放出された時期であり、鍾之助は多くの名器を扱い、実践を通じてその鑑識眼を養い、目利きの道具商として評価されるようになった。豪胆な性格で、社交の術にも長け、低迷していた戸田商店を見事に立て直した。

十三代 戸田 博

昭和24(1949)年~

3年間のアメリカ留学を経て1973(昭和48)年に東京の弥生画廊に入社し修業を重ね、1976(昭和51)年に谷松屋戸田商店に入社。後継者として家業を牽引する一方、現代美術やプリミティブアートに関心を寄せ、広い視野で現代における茶陶の世界を模索している。父鍾之助との対談集に『眼の力』(小学館、2004年)など。

十四代 戸田 貴士

昭和56(1981)年~

谷松屋戸田商店当代。13代目戸田博の長男として生まれる。3年間のフランス留学を経て、2003年に谷松屋戸田商店に入社。新旧を問わない茶の取り合わせや、現代美術の文脈から茶を捉えるなど、様々な視点から若い世代への茶文化の継承を試みている。